表現、は多種多様で際限ないものです。
僕らは基本的に言語で物事を思考し表現し伝達しています。
身振り手振りや表情などで彩りを与えたりしながら意味を明確にし理解を深めています。
表現者の生業や能力に由来して絵画や写真といった方法で発する場合もありますが、結局はタイトルや解説などで言語に頼らなければいけなくなります。
言語を乱して混乱と疑心を与えて思い上がりを戒めるという宗教画があるのは何とも皮肉ですが、いかに言語によって社会そのものが構築されているかがわかります。
頭の中にイメージが浮かぶと、それをアウトプットするために言語へ変換して表現します。
その表現力こそが個性です。
僕は口下手で言葉を選びすぎて詰まってしまいます。
伝えたい事は山ほどあるのに僅かな事しか話せず誤解されてしまうこともよくあります。
仮に自分で思い描いた様に上手く言語化できたとしてもそれが相手に伝わるかはわかりません。
あの時もこの時もその時もそうです。
お昼のお弁当の注文をしないで出かけてしまったので代わりに注文しといてくれますか?と丁寧に説明して依頼すればきっと彼女は注文してくれた筈です。そうすれば午後の仕事を腹ペコでやる必要などなかったのです。
5月の9連休は思い切りましたね!と軽いノリで世間話のつもりで言っただけなのにクレームとして処理されて謝罪までされる事態になるだなんて思いもしません。
毎朝せっせとリンゴの皮を剥いていたらお小遣い欲しいのかと訝しむ冷たい視線が突き刺さります。
どれも言葉足らず。
みんな誤解なんです。
想いは伝わらない。
伝える努力が足りなかった事は重々承知しております。
今日も僕は誰かに会いに行きます。
山程の想いと一握りの言葉で。
そして誤解されます。
それでも行くのです。
誤解を恐れずに。
だからまたあなたに会いに行きます。
想いは伝わらなくとも。