世間は狭い

自分のフィールドは誰かのそれと部分的に重なっているものです。
どこに誰が居たって不思議ではありません。
誰が何をしていたっておかしくないのです。
そこに自分がいるのと同じように。

だからどこかで誰かにバッタリ会うと世間は狭い、なんて言ってしまうものです。

しかし本当に世間は狭いのでしょうか?

自分の見識が浅く視野が狭いだけなのではないかと思うことがよくあります。
そしてそれはその通りで、実際に人の世は計り知れないものです。
世界は広く深く、世間にはいくつもの層があります。
その一部しか捉えられない自分の意識と理解が狭く浅いだけなのです。

ならば世間は広い。

のでしょうか?

僕がもしビートたけしに祝辞が素晴らしかったと伝えるために会いたいと思って本気で行動するとしたら、まず僕は中学の担任に会いに行きます。
その先生はダンカンの同級生なのでダンカンを紹介してもらってさらにビートたけしに繋げてもらいます。
当然そんな事は出来るわけはないのですが、人の繋がりだけで捉えれば2人の仲介で会える事になります。
すると3人で…×××
もちろん『格』『身分』と信用を無視した話ですから現実的な話ではありません。
しかし、どんな人にも6人を介せば出会えるという6次の隔たりを一応は実証できるわけですね。

そう考えれば、世界は広いが世間は狭い、と言うのが適当な気がしてきます。

だから、20年会ってなかった友人に担当者会議でバッタリ会ってもそれは当然なのですね。

エアマットを届けに行った施設で対応していただいた職員が旧友だったとしても不思議ではありません。

その後、呑みに行って近況報告をしあったのは言わずもがな。

その居酒屋のオーナーが友人だったからといってもはや今更驚きません。

そして言うのです。
世間は狭い、と。

友人の活躍を耳にすると堪らなくなります。自分はまだまだだと悔しさも入り混じって妙な気分にもなります。
こうゆうあやふやな感情をやり過ごしたり飲み込んだりできる位には大人になったつもりでしたがまだまだ未熟ですね。

もっともっとまだまだ成長して狭い世間を脱するのです。

そして脱した先のステージで誰かに会ったらまた言うのでしょうね。

ほら。
世間は狭い、と。

K.K

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